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当宮は応神天皇を御主座に両側に八柱の神を配祀奉る。創建は定かではないが、古代より山上(現八畳敷)に磐境(古代祭祀様式)があり、人皇第三十六代孝徳天皇の御代には、既に山上に社祠が建立されており美嚢郡(ミナギノコオリ)高野里(タカヌノサト)の祝田社(ハフリタノヤシロ)と称し祀られていた。〔『播磨国風土記美嚢群の段』見出〕その後、天永二年(西暦1111年)烏羽天皇の御代に社殿を遷座したと伝えられる。

人皇第六十二代村上天皇の第七皇子具平親王の皇胤赤松季房の孫である別所頼清が東播の守護となるや当社を氏神とし、これより代々の城主が守護神とした。城主の尊崇は特に厚く、また領民も崇敬深いこの祝田社は「祝田宮(ハフリタノミヤ)」と唱えられ、のち「誉田宮(ボンダノミヤ)」と変り、やがて勝運厄除神の八幡宮となった。

室町時代となり織田信長の天下布武思想により、中国の豪族毛利氏平定の総大将羽柴秀吉と戦った別所氏は、三木城に籠城して周辺の山野に布陣したが天正八年(西暦1580年)、別所氏が亡んだときに兵火によって社殿ならぴに諸記録はことごとく消失したが、天正十一年九月十三日(現例祭日の起源)羽柴秀吉は三木城代の中川右衛門太夫秀政に命じて社殿を再建造営せしめた。

その後、慶長八年(西暦1603年)姫路城主池田三左衛門輝政は家老伊木長門守を使わし川原の田畑および境内の山林竹木を黒印をもって寄進せられ、応神天皇の左右に八柱の神を配祀した。これより九柱八幡宮という。元和五年(西暦1619年)小笠原右近太夫忠政は本殿と諸建築物を修理し黒印社領を寄附し、当時拡張された境内の広さは七万余坪もあり東播磨随一の大社として近郷に知られるようになった。徳川三代将軍家光は先規に準じて朱印領を寄進し歴代将軍も山林竹木諸役を免除し社殿を安堵された。

明治初期には郷社に列せられ、平成六年には割拝殿を境内北側能舞台横に移し、本殿を後方に引き、その前に両翼殿を備える拝殿を建造する大造営を行い、四方衆生の尊崇篤く現在に至っている。